第67代内閣総理大臣・福田赳夫|Wikipediaよりもよくわかる!評価と功績
総理大臣経験者であり、自民党の中でも自身の名前が付いた「福田派」の派閥を形成するほどの、政治界で大きな影響力を発揮した福田赳夫元首相。群馬出身の政治家は多いのですが、この福田元首相も群馬出身の政治家です。そして、福田元首相の秘書を経験し、政治家になった息子の福田康夫元首相、さらにその息子の衆議院議員である福田達夫議員と、家系の中で多くの政治家を輩出した政治エリートとしても有名なのでした。
そんな福田元首相の輝かしい経歴から、有名な田中角栄元首相との権力争い、そして政治家下積み時代など、いかにして政治家としての実績を上げてきたのか、どんな評価を受けたのか、紹介したいと思います。
【福田赳夫元首相】のプロフィール
第8代総裁 福田赳夫
自由民主党さんの投稿 2012年4月25日水曜日
学生時代、官僚時代と常にトップクラスの成績を収めてきた福田元首相は、いわゆる秀才肌の人でした。政治家としては池田勇人元首相に付き、順調に出世していくかと見られますが、政策の違いにより池田政権を批判したことで、自民党内部の主流派から冷遇を受けます。このことから、時には損をするとわかっていても、自分の意思を曲げることができない信念の強さを感じます。
田中元首相との激しい権力闘争には事実上敗退し、一度は下野したかに思われました。しかしその後に田中内閣に協力するため、当時の田中首相の提案に応じて入閣を果たします。こうして力を取り戻していき、自民党総裁選で勝利、総理大臣にになって福田政権を樹立しました。
総理大臣の中でも上げた功績が多く、歴代首相の中で評価が高い人物です。また、ハイジャック事件での名言など、後世に残る印象的な出来事もあり、いろいろな意味で、存在感の大きい人といえるでしょう。
没年月日:1995年7月5日
血液型:O型
身長:168cm
職業:政治家
所属:自民党
出身地:群馬県高崎市
これまでの経歴
世界のホームラン王から一本足打法を伝授される
自由民主党さんの投稿 2012年4月25日水曜日
福田元首相は、群馬県群馬郡金古町(現在の高崎市足門町)に生まれました。群馬県高崎中学校(現在の群馬県立高崎高等学校)を首席で卒業、東京帝国大学法学部法律学科仏法科へ進学します。
福田元首相は東京大学を卒業後、官僚になるための登竜門である高等文官試験を受験し、なんと一番の成績で合格します。これは政治家の中でも特に輝かしい経歴といえ、まさに生粋のエリート官僚でしょう。
その後、思わぬ事件により大蔵省を退官し、政治家の道へ進むことになります。池田政権下では、池田勇人元首相との仲違いにより冷遇され続けました。しかし佐藤栄作政権に入り、当時の佐藤栄作首相に評価され、佐藤内閣の大蔵大臣・党幹事長・外務大臣等に抜擢されます。
田中角栄元主相との激しい権力闘争の末、田中角栄内閣発足にともない一度は下野することに。しかし、田中元首相が挙党一致を求めたことで、第2次田中角栄内閣に行政管理庁長官として入閣し、再び政権の中枢に返り咲きます。そして、三木武夫元首相の後任として、自民党総裁選挙に勝利。
国会での主相指名選挙でも票を集め、念願の福田内閣を樹立しました。
政治一家の家系図|交友関係
休日に自宅で園田直官房長官と懇談する福田総裁(昭和51年12月26日)
自由民主党さんの投稿 2012年4月25日水曜日
福田元首相の家系は、数々の政治化を輩出している、政治一家であることでも有名です。家族親族の多くが政治家を務めており、生家はもちろんのこと、傍系の親族も合わせると、その数はかなり多くなります。
まず、福田元首相の息子は、福田康夫元首相であり、親子二代で総理大臣を経験しています。福田康夫元首相の甥は、元経済企画庁長官の越智通雄さんで、さらにその息子は越隆雄衆議院議員。
ここからさらに広がりますが、福田康夫元首相の妻の叔父は、桜内義雄元衆議院議員で、その父親は桜内幸雄元大蔵大臣。桜内義雄元衆議院議員の孫は桜内文城さんで、甥は太田誠一元農林水産大臣と、大臣経験者がたくさんいます。
そしてかなり遠い血縁になりますが、辿っていくと中曽根元首相との繋がりまであるそうです。福田家は政治一家と言われますが、ここまで広がっているとは驚きでした。
⇒ 群馬県は多くの総理大臣を輩出しています!葬儀費約1億円の国葬を行った中曽根康弘元首相も群馬県出身!
田中角栄|秀才と天才の関係
福田元首相といえば、あの田中角栄元首相の田中派と、熾烈な権力闘争を繰り広げたことでも有名であり、二人の頭文字を取って「角福戦争」などと呼ばれています。天才と称される田中元首相と、エリート街道を突き進んだ秀才の福田元首相、二人の壮絶な戦いが繰り広げられました。
日本列島改造論を掲げ、高度経済成長路線の拡大を訴える田中元首相と、安定経済成長論を唱える福田元首相で意見が対立し、両者の派閥総出での権力争いが始まるのです。
政治家の権力争いは熾烈なもので、勝つか負けるかで派閥メンバー全員の政治生命が決まります。だから二人の間の問題だけでなく、派閥メンバー総出で争うのです。
浅香光代|隠し子や関係を否定
女優の浅香光代さんが隠し子の存在を明らかにしていますが、その隠し子の父親が、福田元首相であるとの憶測が飛び交っています。これについては、浅香さん自身も、政治家と交際していたことを明かしており、「役者との間に子供ができたとなると、先生の名に傷がつく」と思い、隠すことに決めたと言っていました。
このことから、浅香さんと政治家との間に子供ができたことは、明らかなようです。しかし、それが福田元首相であったとまでは明かされることはなく、真相については未だに謎のまま。
第67代内閣総理大臣としての評価・功績
【追悼】サッチャー元英首相
マーガレット・サッチャー元英首相のご逝去の報に接し、ご遺族の皆さま、英国政府及び英国国民の皆様に心から哀悼の意を表します。写真は、昭和52年4月、自由民主党の招待で来日したサッチャー保守党党首です。当時の福田赳夫総裁と会談を行いました。
※自民党のFacebookをさかのぼると、過去の写真「The Classic」をご覧いただけます。
自由民主党さんの投稿 2013年4月8日月曜日
福田内閣は、辞任するまでの間に様々な功績をあげました。
政権発足当時は景気の早期回復と雇用不安の解消を掲げ、自らを「経済の福田」と称して景気対策を行います。あらゆる手段を駆使して、景気を向上させる努力したことで、日本経済が回復基調に向かうのですが、これは福田内閣時代の大きな功績といえるでしょう。
また、外交面でも福田内閣時代に大きな成果を上げています。日本は当時世界第2位の経済大国として、世界経済回復の先導役としての責務を果たそうとし、アメリカをはじめとした先進諸国との協調姿勢を示すことで、多くの国から支持を受けました。
さらに、アジア外交においては、日本と東南アジア諸国が物的関係だけでなく、あらゆる面で友好協力していきます。アジア全体の建設、安定、繁栄に貢献することを謳い、これを「福田ドクトリン」としてアジア外交の目標を明確に示しました。
このように、内外問わず幅広い領域において、大きな功績をあげているのです。
高学歴エリートの苦労・下積み時代
福田元首相は東京大学を卒業後、高等文官試験にに合格し、官僚の道へ。入省したのは大蔵省ですが、大蔵省は池田隼人元首相、大平正芳元首相など、歴代総理、主相経験者が数多く経験した省でもあります。その後、大蔵省で順調に出世して局長にまで登り詰めたが、政府関係者に対する贈収賄で、当時大蔵省主計局長で次官を目前にしていた福田元首相は収賄罪容疑で逮捕されました。
有罪には至らなかったものの、これをきっかけに大蔵省を退官。そして、第25回衆議院議員総選挙に群馬三区から無所属で立候補し初当選します。
大蔵省の先輩である池田勇人元首相の政権下で、政調会長に就任するなど、順調に政治家としての地位を築き上げていきました。しかし、次第に当時の主流派池田元首相の政策を批判するようになり、反主流の立場で池田元首相に対抗。
福田元首相は池田政権下において冷遇を受け続け、長い期間にわたり煮え湯を飲まされることに。結果的にこれが、息子の福田康夫元首相が秘書として下積みを経験したように、福田元首相の下積み期間となりました。
子供や孫に受け継がれる政治家の遺伝子
自由民主党さんの投稿 2012年4月25日水曜日
福田家は、たくさんの政治家・国会議員を輩出しています。直系・傍系の親族も合わせ、その数はかなり多くなります。なかでも息子さんは、あの総理大臣経験者である福田康夫元首相ですが、親子二代での総理大臣経験者は、この福田親子だけなんです。
ここでは、そんな息子の福田康夫元首相と、さらにその息子の福田達夫衆議院議員を紹介します。
息子|第91代内閣総理大臣・福田康夫(ふくだ やすお)
福田康夫元首相が政治家になる前は、石油会社の社員でした。その会社は40代で退社し、政治家になります。父である福田赳夫元首相の秘書務めた後、1990年の衆議院議員総選挙に出馬し、初当選。当選したときすでに50歳であり、政治家になったのはかなり遅いようですね。
第2次森内閣、続く小泉内閣で官房長官を歴任。その後安倍元首相の辞任に伴う自民党総裁選では、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎議員を抑え、自由民主党総裁選挙に選出します。そして、第91代内閣総理大臣に就任しました。
孫|福田達夫(ふくだ たつお)衆議院議員
福田達夫議員は、慶應義塾大学法学部法律学科卒業し、その後はアメリカのジョンズホプキンス大学高等国際関係学研究所の研究員に。そして帰国後、三菱商事に入社するという、経歴を見るだけでもエリート家系らしさが漂います。
父である福田康夫元首相が、第2次小泉内閣で内閣官房長官を務めていた2004年、三菱商事を退社します。福田康夫事務所に入所し、福田康夫元首相の秘書を務めますが、このあたりは福田康夫元首相と同じ経緯をたどっているようですね。
福田康夫元首相が内閣総理大臣に就任した際は、内閣総理大臣秘書官も務めました。
福田康夫音首相が政界を引退する意向を表明すると、福田の引退表明を受け、達夫議員が公認を受けます。そしてその後の衆議院議員総選挙で、群馬4区から初当選を果たしました。
第3次安倍第3次改造内閣にて、防衛大臣政務官兼内閣府大臣政務官に就任しています。このように、若いうちから多くの役職を与えられており、順調に出世していけば、前代未聞の三世代総理大臣が実現するかもしれません。
【死因・慢性肺気腫】内閣・自民党合同葬
写真は拡大ASEAN会議終了後に、記念撮影に臨む福田総理はじめ8カ国首脳(昭和52年8月6日)
自由民主党さんの投稿 2012年4月25日水曜日
福田元首相が総理大臣を退任後、大平正芳首相が誕生します。総理退任後も、大平内閣発足後の大平政権下では、反主流派のリーダー格として力を振るうなど、政界で影響力を発揮していました。第39回衆議院議員総選挙を機に政界引退を決意。
引退後も岩波書店から『回顧九十年』を刊行し、出版記念パーティーに姿を見せるなど、活動を続けていました。しかし、東京都港区の東京女子医科大学附属青山病院で慢性肺気腫を起こし、そのまま死去します。
福田元首相の葬儀は、内閣・自民党合同葬が行われました。この合同葬については問題もあり、最近でも中曽根康弘元首相の合同葬に1億円近くの税金が拠出されることが報じられ、「高すぎる」と批判にさらされました。
公人としての内閣総理大臣の立場と、私的団体である自民党員という立場を合わせ持つものですから、葬儀にどこまで税金を使うべきか、これは難しい問題です。
名言|福田赳夫元首相から学ぶこと
ボン・サミットでの各国首脳。前列左からシュミット西独首相、カーター米大統領、シェール西独大統領、アンドレオッティ伊首相、福田総理、後列左からトルドー加首相、ジスカールデスタン仏大統領、キャラハン英首相(昭和53年7月17日)
自由民主党さんの投稿 2012年4月25日水曜日
「人命は地球より重い」
この言葉は、日航機ハイジャック事件という戦後の一大事件において、福田元首相が放った有名な言葉です。犯行グループは、人質の命と引き換えに、日本で服役中の犯罪者仲間を解放するよう要求しました。
犯人の要求に従って犯罪者を開放するか、人質の命を犠牲にしてでも要求を断固拒否するか、究極の選択を迫られます。そして、福田元首相が出した答えは、犯人の要求に従い、犯罪者の開放をすることでした。
これを聞くと、とても尊く立派な決断であると、率直には思えるところです。
しかし、この判断はテロリストに屈したことになるので、国際的に厳しい批判を受けることに。福田元首相の判断が果たして正しかったのか?その答えは誰にもわかりません。しかし、この言葉から福田元首相の下した決断を受け、私たちが学ぶことは多いと思います。
まとめ
こうしてみていくと、数々の歴代首相の中でも、やはり印象的な出来事の多い方であるという感じがします。政治エリートの家系に生まれ、輝かしい学歴からエリート官僚になり、政治家の道へ進む…その中でも、困難な経験や大きな壁に直面してきました。
政治家としての下積み経験、田中元首相との権力闘争での敗退、そしてテロリストからの要求に対する大きな決断。エリートならではの苦悩や、辛く苦しい思いがあったであろうと思います。
福田家で現在活躍するのは、福田元首相の孫、福田達夫衆議院議員です。このエリート家系の議員が、今後どのような活躍をして、私たち国民の生活に、どう寄与してくれるのか。そんなことを期待して、今後の活躍を見守っていきたいですね。
※情報は取材当時のものです