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中曽根康弘元首相|葬儀費約1億円の国葬と群馬出身政治家の功績

中曽根康弘 総理大臣 群馬

中曽根元首相は大学を卒業後内務省に入所。その後海軍として戦争を体験し、衆議院議員として政治家になります。敗戦後、無念や悔しさを感じたことをきっかけに総理大臣を目指すことにした中曽根元首相。その思いあってか党内で実力を発揮し、5年間内閣総理大臣を務めました。
2019年、歴代総理大臣2番目となる101歳で死去するまでの政治人生のなかでたくさんの名言や功績を残しました。本記事では群馬県出身政治家の中曽根元首相についてご紹介します。

【中曽根康弘】元首相のプロフィール

中曽根康弘 総理大臣 群馬
©©https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/071.html

群馬県高崎市出身の中曽根康弘元首相。群馬県名誉県民の称号を持っています。旧制高崎中学(現、群馬県立高崎高校)卒業しました。生家は材木問屋の「古久家」であり、関東有数の問屋でした。父の松五郎さん、母のゆくさん、長男の吉太郎さん、三男の良介さん、四男の昌吉さんの6人家族で、中曽根康弘元首相は次男として育ちます。

そんな中曽根康弘元首相の若いころの写真をみると鼻がスッと高く、現代でもイケメンと言われるような顔立ちをしていて、身長も178cmありました。首相経験者のなかでもかなりの高身長で、大隈重信さんの180cmに次いで2番目です。
歴代2位の長寿、そして歴代2位の高身長。見た目だけでなく中身までイケメンの中曽根元首相です。

本名:中曽根康弘

生年月日:1918年5月27日

没年月日:2019年11月29日

血液型:O型

身長:178cm

職業:政治家

出身地:群馬県高崎市末広町

家族や交友関係|華々しい家系図

中曽根康弘元首相は妻の中曽根蔦子さん、長男の中曽根弘文さん、長女の双川美智子さん、次女の渥美美恵子さんの5人家族です。親族は父の中曽根松五郎さん、孫の中曽根康隆さんです。
息子の中曽根弘文さんは、自民党所属で参議院議員として同じく政治家をされてます。そして中曽根康隆さんも2017年に行われた衆議院選挙にて当選し、政治家になました。
ここで家系図をみると中曽根康弘元首相を筆頭に息子の中曽根弘文さんは大臣、孫の中曽根康隆さんは国会議員の政治一族ということになります。

また多数の交友関係もあり、ロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、竹村健一、渡邉恒雄、田中角栄、胡耀邦(こようほう)、全斗煥(チョン・ドゥファン)など中曾根康弘元首相の人柄の良さが表れてます。

孫|中曽根康隆衆議院議員

中曽根康弘元首相の孫にあたる中曽根康隆さんは1982年に生まれ、東京都出身で慶応義塾幼稚舎にて進み、慶応義塾大学法学部卒業後、コロンビア大学国際公共政策大学院を修了され、現在は衆議院議員として自由民主党に所属し、青年局長を務めてます。

またジャニーズグループの嵐のメンバー櫻井翔さんは慶応義塾幼稚舎からの幼馴染で、会うときは週に3回ほど会うほど仲が良いそうです。そして衆議院議員の小泉進次郎さんはコロンビア大学大学院の同期だそうです。

生まれた時には政治一家で、身近に有名人がいる環境で育った中曽根康隆さん。なるべくしてなったのですね。
祖父や父のように生まれ持ったであろう政治家としての実力で首相就任を目指して頑張って欲しいです。

息子|中曽根弘文参議院議員

中曽根康弘元首相さんの息子である中曽根弘文さんは1945年生まれ。高校、大学在学中に陸上ホッケーの選手として活躍し、大学卒業後は旭化成工業(現、旭化成)に就職。営業力や子会社の設立など会社に大きく貢献しました。
旭化成工業を退職後、父である中曽根康弘元首相の秘書を経験、たくさんの方と人脈を広げたのち、自身も参議院議員となり政治家となります。

参議院議員になった中曽根弘文さんはその後、旭化成工業に在職時同様、政界でも大きく活躍します。
・文部大臣となり戦国の政治家の中で初めて韓国に訪問。
・G8教育大臣サミットを初めて東京で開き議長を務め上げる。
・60年ぶりに教育基本法の憲法改正を行った。
・サマータイム制度の推進活動の中心となる。

など、父である中曽根康弘元首相同様に政界で頭角を現しました。

親友|ロナルド・レーガンと田中角栄

国籍問わずたくさんの交友関係があった中曽根康弘元首相ですが、そのなかでもアメリカのロナルド・レーガン元大統領とはとくに仲が良く、親友と呼ぶほどでした。
また英語が話せた中曽根康弘元首相はロナルド・レーガンさんを「ロン」、ロナルド・レーガン元大統領は中曽根康弘元首相を「ヤス」とお互いをファーストネームで呼び合い、良くなかった日米関係を改善します。

田中角栄元首相とは1918年生まれの同じ歳、そして中曽根康弘元首相よりも前に首相を経験しているということもあってか、「永遠のライバル」と言われました。
戦後復興のために道や家の整備に力を入れる田中派、国民に寄り添い国民の声を聞くという中曽根派に分かれるなど、お互い政治家時代を切磋琢磨していきます。

これまでの経歴・功績

これまでに様々な歴史に残る改正を残した中曽根政権。
ここでは首相在任時の功績を詳しく見ていきます。
・国の企業であった国鉄(現、JR)、電電公社(現、NTT)、日本たばこ産業(現、JT)を一般企業とした民営化
基礎年金制度の導入
医療保険改革(医療費の1割を国が負担してくれる本人1割負担)
・20歳前に障害を負っても高い給付を受けることができる20歳障害基礎年金の支給

など年金保険に入っている会社員などの妻である主婦も国民年金に加入させ、現代の日本で生きていく為に必要である基礎的な改革を行いました。

海軍時代|唯一戦争を目の当たりにした戦後総理大臣

内務省に入所後、海軍短期現役制度で海軍経理学校にて教育を受けました。その際に高知県の太平洋で訓練を受け、海軍主計中尉として戦地へ向かいます。
実際に経験したいくつかの戦争のなかで、中曽根康弘元首相はバリクパパン沖海戦の際に目の当たりにした現実をこのように俳句にしました。

「友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜 夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ」

バリクパパン海戦にて戦死した戦友23人の遺体をバリクパパンの海岸で火葬した際の思いを詠んだのです。 この第二次世界大戦後、政界に入った中曽根康弘元首相は歴代の総理大臣のなかで唯一、戦争を目の当たりにした戦後総理大臣と言われています。

政治家時代

戦後、再び内務省に入省しますが、日本が負けてしまったという悔しい気持ちから後に政治家となり総理大臣を目指すことになります。いくつかの長官を務めたのち、衆議院選挙にて当選し野党議員として政治家の仲間入りを果たします。
原子力発電の開発研究に力を入れたり、「憲法改正の歌」というものを作詞し、ソ連に対する批判のような内容であったことから記者からは「青年将校」と呼ばれていた事もありました。

また初当選した際に自転車を白く塗りつぶし、日本の国旗である日の丸を立てて憲法改正や首相公選論のための運動をするなど大胆かつ目立ちたがりな所があったため、当選当初から大きな存在感を表していました。

総理大臣就任|政策・政治姿勢

総理大臣就任後初となる演説で、「わが国はいま、戦後史のおけるおおきな転換点に立っている」と述べその後様々な憲法改正をし、大統領的首相とも言える首相を務めました。

日本の首相として初めてとなる韓国を訪問し、全斗煥大統領と対談。経済問題の解決やお互いの国の発展に協力する合意を得ました。さらに米国を訪問した際は日米親善友好関係を固め、米軍とも信頼を深めます。
これは今までの内閣の中で日米の関係をさらに強化させたとして大きな反響を得ました。
とは言え、中曽根康弘元首相は日米の関係が悪化し、組んだはずの同盟が破られてしまったもしもの時のを考え核武装の用意をしなければならないと考えていました。
戦争を経験した中曽根康弘元首相だからこそ、このような考えに至ったのでしょう。

実は群馬県は、戦後の首相輩出人数は全国1位!群馬の誇れることを紹介しています

国鉄民営化|日本航空123便墜落事故との関係

「真実は墓場まで持っていく」と発言したことが噂になった2つの出来事があります。
ひとつは、35年経った今でもテレビや雑誌で特集を組まれるほど日本において大惨事となった御巣鷹山日航機123便墜落事故。この事故に中曽根康弘元首相が関わってるのではないかないかという事です。しかし調べてみても、この発言がどの時期、どの場面、何に対して口にしたかは分かりません。

もうひとつは、中曽根康弘元首相が積極的に進めた政策の国鉄民営化。国鉄時代に東海道新幹線、山陽新幹線において新大阪ー岡山間を開通させたのですが、開通とほぼ同時に業績が悪化していきます。その為経営が苦しくなり民営化されたその理由が国鉄再建ではなく、「労働組合を合法的に解散させるためであった」という事です。

有力なのは国鉄民営化の件と言われていますが、お亡くなりなられた今、この2つの「噂」の真実は本当に墓場まで持っていってしまいました。

沖縄返還

皆さんもご存じのように、沖縄はアメリカ領だった時代があります。
1972年に返還されましたが、その際に交わした外交文書にて核兵器の持ち込みについての秘密の約束があったといいます。

そのうちの1つ、「沖縄を返還後もし戦争や日本において非常事態が起きたときの核兵器を持ち込みするかしないか」という約束ですが、中曽根康弘元首相はアメリカの国防長官と対談した際、「国防方針に核兵器は持たないと書いた方がいい」「ただし、米国の核兵器の国内導入については留保しておいた方がよい」と発言しました。

戦争を経験している中曽根康弘元首相だからこその発言だったのですが、最大の武器であるその武器で大きな被害を受けた日本です。
核兵器の持ち込みは他の政治家からはあまりいい声ではなかったのです。

外交

日米、日韓、日中の関係があまり良くなかった当時、中曽根康弘元首相は対談、訪問をして外交関係の改善に努めます。

日米関係は最悪の状態だったが何度も会談をし、日米同盟の重要性を必要としてお互い考えを一致させ協力して国を守っていこうというところまで深い仲になりました。
日韓関係でも首相になる前から、まずは日本と韓国における様々な問題を解決させようという計画があり、その計画通り首相在任わずか数日で当時の首相、全斗煥と電話にて対談し初の韓国訪問をします。
日中関係では蜜月時代と呼ばれた当時、首相として初めて8月15日に靖国神社を公式訪問し、「中国には過去に日本が起こしてしまった事を謝らなくてはならない」という考えがありました。

ウィリアムズバーグ・サミットでは重い空気のなか、各国の首相が言葉も出なくなる前向きな発言をし、すんなりと会議を進めます。

リクルート事件|戦後最大の汚職事件

戦後最大の汚職事件と呼ばれたリクルート事件に中曽根康弘元首相は関わっていました。この事件はリクルートの子会社であった不動産会社が政治家たちに株を分け与えていたという事件です。中曽根康弘元首相はその株を分け与えられていた政治家のうちの1人でした。

この事件には大勢の政治家や官僚が関わっていました。しかし不動産会社が何を目的としていたのか特定できなかったこともあり、証拠がない政治家や官僚は「自分が直接もらったのではなく、家族がもらったから分からない」と発言します。
そのため中曽根康弘元首相含め多数の政治家や官僚は罪に問われませんでした。

政界引退後~晩年|『100歳へ!』長寿の秘訣

中曽根康弘元首相は政界引退後、日本テレビの「本音激論!なかそね荘」という番組の中で渡辺恒雄さんと対談し「日本は政治力が落ちている」「世界に日本の政治力を示すようなリーダーが必要だ」と話したそうです。

101歳まで生きた中曽根康弘元首相。その長生きの秘訣はいったい何なのか。
100歳へ!という本の中では長寿の秘訣は大きく分けて6つ紹介されています。。
4つの管理と2つの心構えです。
それは「食べ物、ストレス、日常生活の健康、人生と政治への管理」そして「心の安定と趣味を持つ」という気持ち作り。
朝は野菜スープに納豆、ヨーグルトという徹底ぶりでした。なにげない毎日を有意義に過ごすことが大事なのですね。

【国葬】「故中曽根康弘」内閣・自由民主党合同葬儀

2019年11月29日、中曽根康弘元首相は東京都内の病院で死去しました。101歳でした。死因は老衰です。中曽根康弘元首相の葬儀は 戒名、憲徳院殿東山誠通大居士という名前で国葬として執り行われました。 喪主は長男である中曽根弘文さんが務め、家族に見守られながらお別れをしました。国葬には税金が約1億円投入され、文部科学省が国立大学に弔意の表明を求める通知を出したことに対し学生が反対集会を行うなど世間を騒がせました。
お別れの会はコロナウイルス感染拡大の影響もあり、当面の間延期されていた内閣と自由民主党の合同葬儀は令和2年10月17日(土)に東京都の高輪グランドプリンスホテル新高輪国際館パミールにて執り行われました。

まとめ

中曽根康弘元首相が生きた101年間の人生はとても濃いものとなりました。
内務省入省から始まり、とても辛く、しかし国のために戦った戦争を経験しその経験が糧となりのちに内閣総理大臣となりました。若い議員時代は「青年将校」、自ら派閥を作りその様子から「風見鶏」などと呼ばれたこともあったがその行動力こそが総裁となった理由なのでしょう。

今の日本の基盤となる数々の改革をしてきた中曽根康弘元首相。息子も政治家、孫も政治家。中曽根康弘元首相が政治家の主となって家族にも良い影響を与えました。
長寿であった中曽根康弘元首相から1番近くで見たもの得たものはたくさんあるはずですから、今後の日本政治に是非役立てて欲しいです。

※情報は取材当時のものです

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