第84回内閣総理大臣小渕恵三|「平成おじさん」の死因は?功績や評価まとめ
平成から令和へと元号が変わるとき、菅官房長官(現総理大臣)が「令和」の色紙を掲げ、新元号を発表していましたね。では、「平成」の元号を発表した人を、皆さんはご存じですか?
そうです、その人こそ、群馬県出身の第84代内閣総理大臣・小渕恵三元主相なのです。多くの人が思い浮かべるこのイメージもあり、当時の世間で小渕元主相は、「平成おじさん」と呼ばれていました。
そんな小渕元主相ですが、実はただの「平成おじさん」ではありません。死後もなお「人柄の小渕」と称されるほど、優れた人格者であり、また政治家として様々な功績も上げていたのです。
この記事を読んでいただけば、小渕元主相の秘められた魅力を知り、ただの「平成おじさん」ではないことがわかります。
【小渕恵三】元首相のプロフィール
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吾妻郡中之条町で生まれた小渕元首相は、公立高校を経て早稲田大学大学院へと進学します。そして大学院在学中に衆議院総選挙に出馬し、学生ながらみごとに当選。在学中の当選は、政治家の中でも珍しいのではないでしょうか。
当選後は竹下登元首相に師事し、「竹下派」という政治会派の中でも有力な地位に。そして、竹下内閣での官房長官時代、テレビで「平成」の元号を発表する役目を担い、「平成おじさん」として一躍世間に認知されます。
総理大臣時代は冷めたピザなどと言われ、当初は残念なことに低評価。しかし、のちに総理大臣として多くの功績をあげることになり、世間の評価を覆していきました。
政権発足から約1年8ヶ月経過後、小渕元首相は突然倒れて入院します。病状は重く、回復には至らず、入院から数日後には逝去しました。死因は脳梗塞。総理大臣としての激務による、心労が原因でしょうか。
生年月日:1937年〈昭和12年〉6月25日
没年月日:2000年〈平成12年〉5月14日
血液型:A型
身長:168cm
職業:68kg
所属:自由民主党
出身地:群馬県吾妻群中之条町
これまでの経歴
訪米し、盛んな歓迎を受ける小渕総理(平成11年4月29日)
自由民主党さんの投稿 2012年5月9日水曜日
小渕元首相が初めて就いたポストは、郵政政務次官。ここで小渕元首相は、「現場の気持ちを知る」といい、なんと自ら郵政職員に混じって郵便配達を行います!このことは、郵便局員を大いに驚かせました。のちに「人柄の小渕」といわれる小渕元首相の人柄の良さが、ここにも表れているといえるでしょう。
自民党内では幹事長、副総裁を経験し、橋本内閣解散後の総裁選に勝利。総裁へと上り詰めました。閣僚としては沖縄開発庁長官で初入閣後、内閣官房長官、外務大臣を経て、内閣総理大臣へと就任します。
しかし小渕内閣は不況のさなかに発足した政権であり、当初の支持率は24.8%。これは歴代2位の低さであり、厳しいスタートでした。
ここで小渕内閣は経済政策に力を入れることで、景気を徐々に回復させます。そして当初低迷していた内閣支持率は、最高時になんと47.6%まで上昇することに!
小渕家の家系図|政治家・実業家・芸能関係者
【中小・小規模企業の声をアベノミクスに!…
自由民主党さんの投稿 2014年2月24日月曜日
最終的には総理大臣にまで上り詰めた小渕元主相ですが、実はその家系で活躍したのは、小渕元主相だけではありません。
実業家、そして政治家としても活躍した父。現在も政治家として活躍し、メディアでも話題の多い娘。このように、方々で活躍する小渕家ですが、その家系の一部を紹介します。
実は群馬県は、戦後の首相輩出人数は全国1位!中曽根康弘元首相も群馬県出身なんです。
父・小渕光平|父親も政治家として活躍
小渕元総理の父・小渕光平さんは、地元の群馬県で小渕製糸所を創業し、経営者としての手腕を振るいます。そして、群馬県でも有数の一大企業へと成長させ、現在に続く光山社グループを築き上げました。この会社は 光山電気工業株式会社という名前で今も存続しており、光平さんは、実業家して卓越した実力者だったのです。
その後、光平さんは息子の小渕元首相同様、政界進出を果たします。度重なる衆議院選挙の果て、2回の当選を果たしました。しかし2回目の当選時の衆議院議員在職中、脳梗塞で逝去されます。
娘・小渕優子|TBS社員から衆議院議員に転身した次女
小渕元総理の娘・小渕優子さんは、現役の国会議員です。優子さんは大学卒業後、TBSに就職し、「はなまるマーケット」などに出演していました。しかし、父である小渕元主相が総理大臣になったことをきっかけに、総理の秘書官をするためTBSを退社します。
そして、その後は自身も政治家になるため衆議院選挙に出馬し、26歳という若さで初当選します。あの華やかなルックスは、見たことがある方も多いのではないでしょうか。優子議員は、現在も女性の活躍や地方創生を掲げ、国会議員として活躍中です。
名言・エピソード
初の所信表明で小渕首相は、「経済再生内閣」と自らの政権を位置づけ、「二年以内に景気を回復軌道に乗せる」と国民に約束、即座に経済戦略会議を設置して具体策の作成に着手しました。橋本内閣との違いは、経済構造改革から積極財政への明確な転換。経済構造…
自由民主党さんの投稿 2012年5月9日水曜日
「鬼手仏心(きしゅぶっしん)を信条として」
小渕元総理は、総理大臣時代にこんな名言を残しています。これは、所信表明演説での言葉。総理大臣らしく、重みがありますが、なんだか難しい言葉ですね。
「鬼主仏心」というのは、「一見無慈悲で残酷な手を使うように見えるけど、実は相手を思いやった心をもっている」ということです。つまり、総理大臣として厳しい決断をしつつも、相手を思いやる「仏の心」を持っていて、いつも私たち国民のためを思っているのだと言いたかったのではないでしょうか。このような信条のもと、小渕元総理は様々な政策に着手し、在任期間中に多くの功績をあげていくのです。
小渕恵三内閣の功績|就任当初の評価は「冷めたピザ」程度?
英国議会のクエスチョンタイムを参考にして初めて開かれた党首討論(平成11年11月10日)
自由民主党さんの投稿 2012年5月9日水曜日
数々の功績を上げた小渕元総理ですが、就任当初は「冷めたピザ」などと揶揄されたことでも有名です。これは、とりわけ悪くはないけれど、面白みがない、魅力がない、ということの比喩。この表現は、アメリカの有力紙・ニューヨークタイムズ紙で書かれたもので、三井海上基礎研究所のジョン・ニューファー氏により日本で紹介されました。
ちなみにこの言葉は日本で流行し、当時の流行語大賞にもランクイン。もっとも、このような就任当初の印象とは打って変わり、就任後に多くの功績をあげた小渕政権でした。そのため、政権の後半では、このような低い評価は随分変わっていったようです。
「冷めたピザ」から「人柄の小渕」へ
1988年、深刻な不況下でスタートした小渕恵三内閣。まずは経済再生が最優先であると考え、金融政策に力を入れます。円滑な金融政策のために、金融再生委員会を設置し、初代金融再生委員会委員長に、柳澤伯夫議員を任命。このような経済対策は効果を示し、徐々に経済を回復させることができました。
そして、政権運営において小沢派との離別などを経て、改造内閣を行い、自由党・公明党との三党連立政権に成功します。外交では、日韓関係、日中関係といった深刻な歴史問題と向き合い、柔軟な姿勢で難しい交渉を着実にこなしていきます。また、当初から思い入れのあった沖縄サミットも計画。
このように小渕元主相の強みは、どんな相手でも柔和に接して関係を構築する、性格・人柄の良さにあります。そこでついたあだ名が「人柄の小渕」。政権内部から外交に至るまで、その人柄で深い人間関係を築いていくのです。
小渕政権は2年にも満たない短い期間にもかかわらず、様々な政策に着手し、成果を上げていきました。
突然の脳梗塞発病|小渕首相が昏睡状態の中の総辞職
支持率の低いスタートから、経済政策などの功績により、支持率47.6%まで高めた小渕政権。しかし、小渕元総理はある日の記者会見で、うまく答弁ができず、10秒ほどの無言状態になります。このような異変ののち、とうとう小渕元総主相は病に倒れ、入院してしまいました。
そのまま数日が経ち、小渕元総理の回復のめどが立たない中、小渕内閣は総辞職を決定します。こうして政権発足から約1年8ヶ月、小渕内閣は終焉を迎えます。小渕元主相の死後、竹下派が勢力を弱め、福田派の支配へと移っていきます。そして、小渕元主相自身も病から回復することはなく、2000年4月5日、逝去するととなりました。死因は脳梗塞であり、父の死因と同じ病気です。
葬儀・平成12年6月8日|日本武道館で志半ばの死を悼む
総理大臣在任中の突然の死。天皇皇后両陛下をはじめとする皇族各殿下、葬儀委員長である森内閣総理大臣をはじめとする政府・政党要人が参列するほか諸外国から多数の要人が来日されました。
そのなかには、クリントン米国大統領、金大中(キム・デジュン)韓国大統領など、他国の首脳が含まれており、政治家の葬儀の中では珍しいものになりました。これも「人柄の小渕」と呼ばれる、小渕元首相の築いてきた人間関係があったからこそ、といえるかもしれません。
こうして、このような国内外含めた数多くの要人が参列する中、小渕元首相の葬儀が執り行われました。
穏やかな性格|死後も伝わる人柄の良さ
第18代総裁 小渕恵三
自由民主党さんの投稿 2012年5月9日水曜日
遺影を見ると、小渕元総理の穏やかな笑顔がみられます。政権発足当初から、不況の影響で常に厳しい環境にありましたが、笑顔を絶やさず、常に前向きな政権運営をしてきた、小渕元主相。
「人柄の小渕」と呼ばれるほどに柔和な対人姿勢は、党内においても外交においても敵を作らず、地道にの信頼関係を築いていきました。小渕元総理は地味だといわれていましたが、これは決して「地味」なのではなく、確固たる意思に基づく「地道」な政権運営だったのです。亡くなって今もなお残る人柄の良さは、小渕元総理の人格そのものです。
まとめ
はじめは「平成おじさん」、総理大臣就任当初は「冷めたピザ」、そして最終的には「人柄の小渕」と、徐々に評価を変えていった小渕元首相。苦境に立たされても困難に立ち向かい、着実に職務をこなしていくことで、様々な功績をあげました。小渕元首相の生涯を知り、改めてすばらしい総理大臣であったと実感します。
志半ばで逝去されてしまったことは、とても残念です。しかし、娘の小渕優子議員が、小渕元総理の遺志を継ぎ、現在も国会議員として活躍中です。小渕元首相の功績を称え、小渕優子議員の今後にも期待し、これからの活躍を願いたいですね。
※情報は取材当時のものです