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老婆が旅人を苦しめた?旧中山道の山中坂にある謎の看板が話題に

ネット上をにぎわす「老婆が居て旅人を苦しめた」とだけ書いてあ群馬県安中市旧中山道の案内板。

大切なことが全然書かれていないなどネットで話題に。

今回は、安中市役所産業政策部観光課の方にご協力いただき、謎の案内板をご紹介します。あなたもこの謎に迫りたくなること間違いなしです。

マラソン大会のコースにもなっている旧中山道


©http://www.city.annaka.lg.jp/kanko_gyouji/tooashi/

今回、旅人を苦しめた老婆がいる!とネット上で注目を浴びている旧中山道の謎の案内板があるのは、遠足マラソンコースの中でも険しい30キロの峠コース。

横川駅を過ぎ、上毛かるたでも読まれる碓氷峠の関所跡を通りすぎると山中茶屋から山道が始まります。熊野神社までの険しい道のりが安政遠足(あんせいとおあし)マラソン大会のコースとなっています。

全国からランナー集結。安政遠足(あんせいとおあし)マラソンとは


©http://www.city.annaka.lg.jp/kanko_gyouji/tooashi/

群馬県安中市はマラソン大会発祥の地としても有名です。

1855年安中藩主の板倉勝明が藩士の訓練のためにおよそ30キロもある急な坂道で行った徒歩競争、安政の遠足はマラソン大会の始まりといわれています。

これにちなんで安中市では1955年から5月第2週の日曜日にマラソン大会を行っており、日本全国から仮装したランナーが集まります。

コースは2種類あり、安中城址から碓氷関所までの20キロコースと、子持山麓の熊野神社までの急な山道を登る峠コースがあります。

発見!謎の案内板は子持山山麓の山中坂にあり

旧中山道の山中茶屋から子持山麓までの急な上り坂、山中坂に謎の案内板があります。

さらに登っていくと旅人を苦しめた老婆が住んでいたといわれる家屋の跡が残されています。


©https://ja.monumen.to/spots/9790

中山道の場ヶ原を抜けると標高1,010メートルの子持山があり、子持山の北側は崖。東、南側は急な斜面が広がります。

木々が覆い茂っているので麓からは見えませんが、頂上は巨石が連なり板状になっているところがあります。

山中茶屋から子持山麓までがとても急な上り坂で山中坂といわれています。


©https://ja.monumen.to/spots/9789

旅人の空腹を満たした山中茶屋


©https://ja.monumen.to/spots/9788

碓氷峠と坂本宿の間にあった茶屋の一つ、山中茶屋。慶安年中に川の水をくみ上げて茶屋を作りました。

多い時には13軒もの茶屋や立場茶屋ができ、お茶漬けや餅などで旅人の空腹を満たしていました。


©https://ja.monumen.to/spots/9786

明治に入ると付近には集落ができ山中村となりました。

明治天皇からの寄付もあり栄えていましたが、明治17年に新国道が開通すると、旅人の数も激減。付近の住民は移住してしまい廃村。

現在では屋敷跡、庭後、墓地、畑跡が残るだけとなってしまいました。

一つ家跡の案内板に謎の老婆伝説が!

老婆がどんな風に苦しめたのか!気になる案内板がこちら。


©https://twitter.com/udoncobyou/status/1028977635148292096

山中坂は空腹では上れないことから飯喰い坂と呼ばれています。そして子持山麓の東側には一つ家の茶屋があり、老婆が夜な夜なここを通る旅人を苦しめたという伝説があります。

付近には一里塚があったといわれています。

あまりにも上り坂がきつく、旅人にとって難所であったことからこのような伝説が生まれたのではないかといわれています。

まとめ


©https://ja.monumen.to/spots/9793

群馬県安中市、子持山麓を通る旧中山道の山中坂にある案内板、老婆の謎いかがでしたか?

遠足マラソンのコースにもなっている山中坂の歴史にちなんだ案内板には歴史があります。


©https://togetter.com/li/1256539

一つ家跡、夜な夜な山中坂を通る旅人を苦しめた老婆の住処だったといわれていますが、あまりに坂がきつく旅人が苦しんだことからこのような伝説が生まれたのではないでしょうか!






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